【読書は「勉強」なんて立派なもんじゃない】”読書”に科せられた”重荷”

読書

旅に欠かせないもののひとつに「本」がある。一人旅や夜長に、また電車に揺られながらめくる文庫本は、なんとも味わい深いものがある。

 

読書は勉強か

そんな「本」「読書」を好む人間として時々思うのだけれど、読書が「勉強」と同義になっている気がする。ココで”そりゃ当然だろ””勉強意外の何なのだ”と思った方はぜひこの後も読んでもらいたい。

「本を読んで勉強が目的になっているのではいけない。行動に移す、実際のアウトプットがなければ無意味」という主旨の話をよく聞く。僕が本を好んで読んでいるからそんな話に敏感なのかもしれない。

 

音楽も知的対象になりうる

僕から言わせるとその感覚は例えば「音楽なぞ堕落だ。騒がしい」などという幾分古い時代の決めつけ感覚ではないかと思う。音楽は堕落か?最古の芸術の一つではないか?勿論、消費財として生産される音楽に対して芸術性からの乖離、純文化としての要素を感じられない点は同意するけれども。かといって堕落とは思えない。文化的な価値がある。愛好家にとっては知的対象でもあり教養に繋がる深みがある。一言で言えば”学び”があるのだ。

 

読書への形式的な決めつけがもたらす害

これが逆さまになっものが「読書」への価値の固定化だ。つまり「本でも読んで勉強しなさい」ということになる。これは読書というものの価値の無反省な祭り上げだ。読書は必ずしも勉強ではない。それは形式的な思い込みであり決め付けであり実質を無視した狂信と言っても過言ではない。単なる活字的嗜好以上でも以下でもない読書がどうしてそこまで”偉く”祭り上げられるのだ。言ってみれば音楽的嗜好と同じことである。Led ZeppelinもMiles DavisもRamsey LewisもThelonious MonkもSidney BechetもNucleusもMe’Shell NdegéocelloもThe Mamas & The Papasもthe Baech Boysも、なんでも構わない。それぞれがそれぞれの良さやアイデンティティをもっていてそこから何かを感じればOKじゃないか。

 

読書をうっとうしいものにしているのは大人達だ

「本を読んで勉強が目的になっているのではいけない。行動に移す、実際のアウトプットがなければ無意味」という主旨の話をよく聞く。僕が本を好んで読んでいるからそんな話に敏感なのかもしれない。しかし僕に言わせれば、それは個人の自由だ。大人が読書というものを固定化しその価値を狭義に押し込んでいる害がそこにある。これは認識すべき事象だ。曰く、読書は勉強であり、その結果、実際に何かを生み出さなくてはいけないものであり、その生み出した行動なり成果物も評価対象となる。しかしよく考えるまでもなく、そんなうっとうしい世界の入り口にある「読書」に誰が好んで手を出すだろう?

 

“want”に素直に、本を手に取ればいい

各人が興味のある分野について何かを知りたい、その「〜たい」=”want”だけでじゅうぶん読書をする意義がある。知ること、興味があるので手に取るということで既に十分、読書の価値を味わえていると声を大にして言いたい。形式張るな、結果、何を生み出すことまで考えるな。興味に対して自由であることが一番の学びなのである。結果は知らず知らずの間に染み出してくる。まず果てにとりページをめくること、その形、真似からでもいい。真似こそ”まねぶ”=学ぶことの本質なのだ。

 

 

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