それはお化けというような嘘ものの世界の話ではありません。
エスカレータの功罪
最近、より短距離で処理することがどれほど有効かを考えています。特に気になるのが、エスカレーターへの行列であります。ちょっとのぼるだけなのにその距離も歩こうとしない。階段型の台に乗って運ばれるのを待つ行列を眺めながら、此の人達の足は何のためにあるのだろう…?と考えたりします。使わないのならなくてもよいのではないかと思うくらいです。
手で創り出す「モノ」
そう考えると、手も、例えばPCのキーボードをうつくらいしかしていない人も多いのではないでしょうか。自分もその一人でうはありますが。といって、手ってなんのためにあるのかと云う問いがおこります。食べ物をとったり、料理をしたり生活に必要な道具を作ったり等々。。と思うと、実は今の社会では自分で手を動かして何か(そのものを)を作ったりすることって殆どないんだと気づきます。
足の意味。歩くことは無駄なことか
その意味で、足はもっと酷いですね。歩くためにある二本の足ですが、できるだけ歩かないようにするための仕組みが満載なのですから。人間は歩く能力をおっくうなものだと考えているようです。でもそれは本来の足の持つ意味ではありません。歩くことを無駄なこと、または疲れることだと考えてより短時間かつラクに移動できる道筋だけを求める(ここ重要)思考回路が出来上がってしまっている危険性を感じます。荷物があるからそうしようならまだしも、できるだけ歩かない方がらくだからという理由でのエスカレーティングには生物としてありなのか本当に問いたい気持ちです。
自然物である人間としてのカラダの意義
そこで問いたいのが、人間の体というものが(頭ではなく体が自然に)求めているものは何かということです。それは決してラクであることではないのではと思います。そうなると、楽ばかりがある此の世の中にいると、体の本当の部分は何か間違ってしまうのではないかと思えてきます。本来ある機能を果たさなくても、生命的には生きていけるということを細胞レベルで感知し始めるのです。すると、ある時期から、足がなくなります。必要ないのですから。そして手も。しかしそんな動物殆どいませんよね、体に毛のない動物だって殆ど見ないのに。さらに手も足もそんな格好になってゆくヒトの姿とはなんとも滑稽に思われます。