【老いは余りの生ではない】『老年について』/キケロ(岩波文庫)

老年について/キケロ/岩波/スローライフ/田舎暮らし/移住
“老年の方に見られる気難しさやひねくれは、その人独自のものであって、老年という世代が統べてそうなのではない。”
という言葉に、漠然とある老いに対するネガティブなイメージを考え直す本でした。

人生は四季のようなもの

生まれ、育ち、熟し、老いることは、そのまま春、夏、秋、冬に当て嵌まりまるように思います。
若い時代が春、夏の隆盛であれば、40以降の世代は、秋の味覚、紅葉、渋みのような。お年寄りと云われる世代は、大いなる雪の静けさ、美しさのような達観や全てを受け入れる心の落ち着き、余裕。そういうものかもしれません。
それぞれの良さ、価値は各世代で存在するということがわかります。石破さんが仰っていたように、老いは、余生ではない。のでしょう。
老年は、[余り]ではない。それは多くの若年中年の人々が知りもせずに決めつけた考え方でしかありません。
とすれば、その時どきを真っ正面に生きていなければ、老年になったところで”落ち着いたら○○しよう”、、そんなことは到底できないでしょう。未来にやりたいことがあるなら、結局それは今の積み上げでしかない、そう思います。

数値的+のワナ

老いを考えるということは

生きることを考えることです。それはすなわち、幸せとは何かを問うことに繋がります。
落ち着いた時間をより自然に近いところで美味しいものを食べながら、呑みながら過ごす。お金やスピードよりも、ゆっくりと、シンプルに過ごす良さをを考えさせられます。

幸福は必ずしも数値的+なものではない

20代〜30代までは、自分のなかでは結構キツいシーンもあったと思いますが。
これからは”発展”、もっと云えば数値で”プラス”となることを良しとすることよりも、なか身の充実、幸福というものはなんだろう?そんな問いを持っていきたいですね。
仕事で考えればメインワークのほか、若い世代の方々に対して自分が今まで経験してきたことを伝えてみたい、と感じます。自分のこととして、動機づけを持ってもらうにはどう伝えたら良いかな。。そうしたことを考えてみたいですね。
正論オンリーでなく、共感やおおらかさの中で伝えるということを学んでいきたいと思います。

此のあとの暮らし

先が当たり前あると思わず、、

とにかくゆっくりと心安らかに過ごしたい。スローダウン、という考え方。
ある程度質素でも、雨風が凌げ、毎晩、白いゴハンと暖かいお風呂、お布団で眠れるのですから、心の安静こそ幸せの第一ではないでしょうか?
もっと自然に近くて美味しいものが食べられるせっかちのないスローな暮らしをしていきたいですね。
もう一つは、自分が持っている(わずかなものでも)ものを伝えることかなぁ。そしてその伝え方を学ぶこと、偉くなんてないのですから対等に、相手を思いやりながら伝えることを学びたいですね。

ちなみに自分の気になる点..

体力の低下

 ・スノボなどの激しい動きができなくなるのでは。

→ 日頃から、体を鍛えるように変えてゆける。

胃腸、肝機能の低下

 ・美味しいものが食べられなくなるのでは。

 ・ワイン、日本酒など地球が生んだ奇跡の飲みものが呑めなくなるのでは。

→ 程よい量などのケアするように変えてゆける。

死への接近

 ・痛いのでは。なんだか漠然と怖い。

→死は自然に還ること、つまりは生まれ来たところへ戻ってゆくのだから、生まれる時に痛みや怖さがなかったように(覚えていないように)、そもそも怖がることはないのではないか。

生き方を見直す

 ・残された時間はすくないのではないか。

 →そもそも、いつ死ぬかを自分は知りません。明日ではないと云えないのに、随分さきまで生きているはずだと思っているようです。

それならば..

 ・時間をゆっくりと過ごすことのできる人になっていたい。

 ・自然のありがたみを感じ、感謝し、いまよりもっと自然に近いところにいたい。

こう考えてみると、漠然と持っていたイメージに対して、老いること自体はそこまで悪くないものかもしれない、と思えてきました。

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