【クルマ/あおり運転/暴走車】ムダと効率性の嘘】自分ばかり考える社会の行く末


自分の事のみ考えている人間ばかり

自分の事のみを考えている人間が多すぎます。このことは、ただし今の社会の構造からするとある意味当然なのです。アダムスミス的な観点から、各人が自分の経済的目的を最大化しようとする努力が社会を統制するというニュアンスの。それはそれで良いと思うのだけど。

数値的プラスの嘘に気づかない人たち

大事なのは、すべてを数値的なプラスで判断してしまう思考能力のなさです。数値的にプラスならなんでも良い、という言い方でほとんどの事がまかり通るように思います。

高速道路のあおり運転の元凶もそこにあるように思います。前を走っている車が邪魔、という部分から全てが誤っている。なぜなら、邪魔でもそれを受け入れなきゃいけないという事を理解していない。一方で、当然追い越しルールがあるのでスロウなスピードで追い越しレーンにいるのはよろしくないけれど、それは別の話。遅くても近寄っちゃダメのなのよ。大前提が。

自己都合の主張。その末は

その点、全て自己都合の正当化に走ってしまう人々の多さに、この国の教養のなさを感じます。それはプリウスに乗っている本人に言ってもしょうがない事かもしれませんが。何が悪いという決めつけも難しいと思います。

拡散プレッシャと無名性、ムラ性

その点、残念ながらドライブレコーダーによって映像が確保され、場合によっては拡散されてしまう今の環境を、それでもやっぱり僕は良しとしたい。社会的な基準から外れる異常な迷惑行為を、やはりダメなものとして理解してもらいたい気持ちがある。その点、拡散させ大勢のプレッシャに晒してやりたい気持ちが理解できる。

でも一方でどうなんだろう、その時は何も主張しない(状況的に主張するのも無理だけど)。ただお互いに無名のまま、ナンバーで特定可能な状態を公表するという、それをみんなの正義で糾弾するというある種ムラ社会的な懲罰の方向もどうなのかと迷うことが多い。簡単に言えば、見せしめだと思う。当事者にとってはそれは見せしめにあって当然という心理だしそれに賛成するけれども、だからといってそれが正解かと言うときっとそうではない。そこにはまた新たな火種ができてしまうように思います。

その意味では、人のそれぞれに、数値的プラスを一旦制御できる心理・教養を獲得すること(その中には、[待つ]ことのできるスキルも含まれる)をなすようなもの、多分それは教育であり読書なのだろうけれど。

免許に教養的な視点を

その点で、最後の救いとなりうるのが免許の考え方かと思います。待つスキル、譲れるスキル、怒らず冷静になれるスキル、こういったものも運転技術の一つだと言う考えを持つことが一つの案では。これにクリアできない場合には免許されないと言う考えもありなのではと思う。その考え方はやはり教養の考え方ですね。簡単に言えば、無駄かどうかではなく良心を持たせるものです。今の社会はその逆ですね、無駄を覗くことが全て。そういっていい。

いってしまえば人の運営なんて無駄ばかりなのですよ。効率的にやったとして地球規模的には無駄を集約してハイパフォーマンスにしているだけなのだから。きっと誰もこうしたことには気づかないと思うけどね。

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