【花を命として見られるか】『茶の本』/岡倉天心

岡倉天心/茶の本/読書/book_of_tea/

『茶の本』/岡倉天心 を読みました。

茶の歴史から中世日本(秀吉さんくらい)の茶室の意義、審美眼の重要性を説く一冊で、言葉は難しいが教養という点では必読の部類かど思える濃い内容ですね。新渡戸稲造の『武士道』と同じように英文訳しだけど、読みやすい日本語にもなっています。

芸術を嗜む側の向き合い方

受け取る側の姿勢が問われていて興味深かく感じました。簡単に言えばもっと深く感じ取ろうとする姿勢。それなくしてその芸術が表そうとした本質までを受け取ることはできないというものです。

確かに日々の時間の中で、学生時代のようなディープな入り方をすることが少なくなりました。当時は予算もない中で厳選した購入対象があり、時間は逆に沢山あった事もあって深く深く入ってゆけた気がします。

今では、なんとなくiphoneに入れてクルマで流しっぱなしになっている音楽ですが(もっぱら音楽の話)、あの時ほど、世界に入り込むようなことがなくなった。

大事なのは、以降、いいものがあまりないということを”外側のせい”にしていたと思い直します。その通りで、自分は今でも、そこまできちんと向き合えているかと。作者の本気と向き合っているかと。そう思うと、実は手持ちの素材に飛び抜けたものがもっとあるのではないかという気持ちが湧いてきます。聴き込み方が(殆どが音楽だから)そもそも不足しているのではないかという問いになった。これは書籍も同様で、いつから恐ろしい数の本が自宅にあるのだが、どこまで精読したかと言われると、殆どできていないので。(多読を志向していた事もあるけれど)

花についてのくだり

花は、人が生まれたり、お祝いがあったり、果たしてなくなった時にも飾られる。

そのものを生命と捉え直して、人により、強制的に奪われ、整形され、やがて廃棄される運命を嘆くくだりに開眼させられました。花の命を人間が都合よく奪ってゆくという描写です。

特に引き込まれたのは、どんなに弱く小さな生き物でも、追い詰められれば何振り構わず抵抗する(窮鼠猫を嚙むの例えもそうかと思います)が、花は何の抵抗もなく、奪われてゆく、という点が、なんとも悲しく描かれていて言葉にできない感慨があります。

普段、花を見るのは花屋さんが飾っている季節の花々くらいで、土に咲く花を見たのはいつだろうという気になります。

歳をとってきた事もあり色々なものに感謝を感じるようになってきた中でも、花に向き合うことがほとんどなかったと思います。この本を読んで、花を探したいが、すぐに見つからない環境を目の当たりにしてその異常さに驚いています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)