【効率化価値観を疑う】待つスキルの欠乏にあふれる世界

待つスキル/効率化価値観を疑う

世の中を見ていると、色んなところでスピードを追い求めていることがわかります。スピードってそんなに大切なのでしょうか?この問いが最近ずっと離れずにいます。スピードってそんなに大切なものなのか。

スピードを求める心理

というか、価値観、考え方の根本にあるものは[時間]かと思います。より時間がかからないほうが、良い。という価値観。

この考え方は一見もっともに見えるけれども、実は意識してゆかないと歯止めが効かなくなる考え方でもあります。少しでも、”より”短縮できること。その”より”って、際限がないのですから。一定程度、短縮できたらそれでよしとすることができないと、永久に、ちょっとでも短縮、ちょっとでもスピードアップ、ちょとでも。それが止まらなくなります。というかすでにそうなっている。

現象として、技術発展によってそれが達成されてゆくことは、それ自体としては進歩なのかもしれませんが..

待てなくなるということ

ただ、そこから影響されるのが、「待てなくなる」ということです。よく「人を待たせてはいけない」と言われますが、待つことができないこともまたいけないのではないかと、僕は考えています。「待たせるな」という主張は、ある側面からしたら、待たせられる人の事情、個人的な勝手な都合ではないかと思えなくもない。相手の都合もあるでしょう、二人、三人いればそれぞれの環境があるし、都合が、事情があると思う。それを絶対的な価値のごとく「待たせることはいけない」という決めつけが果たして本当に絶対的に正しいのかと。

自分たちの生きる時間を締め付けている

このことは、スピードアップと時間短縮の価値観と密接に繋がっているように思います。人は際限ない効率化によって、時間を追いかけ追い越そうとして、知らず知らずに自分たちの生きる時間を締め付けていることに気づいていません。時間短縮ができればより多くのことができると想像しますが、より多くのことを、果たして本当にみんな、しているか。より多くの事をできそうだ、というだけの時間を貯蓄しているような錯覚を覚えているだけではないかと思います。

時間を貯蓄することはできません。

ゆっくり過ごそうと思っても、普段生きている時間感覚の中ではそれは幻想に近いことのように見えます。観念的な理想的な世界があるだけ。お金があれば何かができる、と同じくらい、時間があれば何かができる、そうした考え方からより時間短縮が加速してゆく。その結果、時間軸常識から外れた数値を異常と呼び糾弾し改善を強制し不可能ならば容認できないものとする世界。

「待つこと」はスキル

だと思います。時間短縮、効率化が絶対的に(考えるまでもなく当然、無意識に、常識すぎるほど常識的に)良いとされる世界に生きている中でこの気づきを得られることは大きいです。

待つことは、時間の使い方を見直すことの一つの方法ではないかと思います。もっと待ってみよう。待つことは許すこと、優しく生きること、相手を思うことに直結する行動スキルなのです。

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