【良かれと思って】は自己都合でしかない勝手な話

良かれと思って/自己都合

「良かれと思って」

僕の嫌いな言葉に「良かれと思って」というものがあります。

この言葉は自らを正当化する極めて自己都合的な印象を与えます。

発する本人の「良かれ」で全てが回っていると思っているように感じます。

「良かれ」と思うことは勝手だし自由だけれども、それはあくまでも周囲やその意図を汲み取ろうという善意的な第三者が発するものであって、それを自分で言ってはいけない。

これは非常に重要な使い方の覚えだと思います。

『春にして君を離れ』

『春にして君を離れ』(クリスティ)を読んで、日常的な、または今まで出会ってきたそうしたシーンを思い出して、つくづくそう感じました。当人に悪意はない。悪意のなさで言えば、ほとんどの人に恣意的な悪意などというものはないではないかと思えます。その中でも、これだけの考え方の相違や価値観の違いが事実としてあるという。

amazonへ

この凝縮形は、人のあるぶんだけ正しさがある、ということでしょう。

そう思うとき、自分はどれほど相手を許せているだろう?という疑念に至ります。許す許さないではなく、そうあることを受け入れる、ということくらいしか出来ないのかもしれないなと。

登場人物のロドニーの言う[poor Jone]に全てが集約されていますね。ただただ、可哀想なのです。残念ながらそれを外的な力で変えることはできないという。

自分にも可哀想な点が

そう考えると、自分もそうした点が一つや二つや三つはあるのだろうと知ることになります。可哀想な点。それはほとんどの場合、自分には知らされることはない。

その意味で、自分が誰かに感じる可哀想さは、そのまま自分にも誰か目線では普通に存在するのだということですね。そしたら、ほとんどの人が何らかの、変えられない可哀想さを孕んで生きているということです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)