仕事をお金のためにしている人がいます。僕もその一人。お金なしに仕事はできないというのは間違いないですね。確かに。
ただ、お金は食べられないし飲むこともできないし運転も空も飛べない。結局、お金がなかったら仕事は楽しめないのかなと。それ自体を楽しみ集中して取り組むことができるオフの時のような感覚を仕事でも再現できないのでしょうか。
生きる作業それ自体に見出す喜び
生きることの幸福は生きることの作業それ自体に見出されるものかと思います。結論から言えば仕事への動機付けは、その仕事をしたいと思うしかない。『フロー体験/喜びの現象学』(ミハイ・チクセントミハイ)は、内側からその動機が発生するようにするための極意がぎっしり詰まった大著でした。文字もページも多いけど、学術書とまでいかない、わかり易さがあります。
何かに取り組んでいるうちに、集中して時間も忘れるほどのめり込むことを[フロー]と名付け、その起こりや多様なケースケースでのフローを研究した一冊。
そのフローの持つ力を、仕事、家庭、交友関係から避けられない外的なネガティブケース(不具など)に至るまで説明しています。エッセンスは、”自分の取り組み方次第で物事は変えられる”、という漠然とした書き方になってしまいますが。。
当事者になる
楽しいことへ取り組んでいる時のフローは、仕事にも応用できると。確かに集中していると時間を忘れる。それはどうしたら発生させられるのでしょうか。
著者のいう[心理的エネルギー](よくわからん)をどうやったら高められるかという問いです。その鍵は「当事者」となることではないかと感じました。自己へのフィードがあることで自分のこととして取り組める。取り組むうちに成長を感じる。そういったケースが今までも沢山ありました。パンフやブースや名刺などを作らせてもらった点は本当にそうだと思います。
制限性がもたらす集中
興味深かった点が沢山ありますが、一点あげるとすれば、制限されているからこそ、その中で集中的な取り組みが行え得る、という点ですね。牢獄で何もない状況でも石鹸を靴の裏に塗りそこに詩を書き続けた囚人の話や、事故にあい不具となることで、健全時よりも目標や取り組みへの挑戦意識が活性化した方の話など、環境がどうこうだからという理由はほとんど意味をなさないということがわかります。
会社選びもほどほどになのだろう
自分に置き換えると、仕事、もっと言えば会社の環境を想起しました。あらゆる点で限定性があり(扱う商品、オフィスの場所、社員、価値観、ルーチン、ユーザなどあらゆる点がそうなると思う)それを好むかどうかは個人個人異なるのだろうけれど、結局そうした制限されたことを受け入れ、どう取り組むかを主体的に考えることだろうと思います。
漠然としているのだけど、環境自体を拒否したり受け入れることをなしには、結局は消極的にしか、生きてゆけないかと思います。会社やユーザや社員や設備や何やらを変えるのではなく、その中でどれだけ”自分が”取り組めるかと問うてみることも必要ではないでしょうか。