鷲田清一さんの『「待つ」ということ』を読みました。待つことはスキルではないかと思うようになり手に取りました。いわゆる時間術の逆説、ただ本書は言葉の意味の深堀りが激しすぎて、実用的ではなかったです。。(哲学色が強すぎた。)
[待つ]はスキル
僕のテーマは、待つことをしたいかしたくないかは別として、スキルとして待てるかどうかです。
便利さや時間術ブームの中で、人々は待つことができなくなってしまったのではないかと思っています。待つことが、その字面から持ってしまう印象ほど、必ずしも悪いことなのかどうか…
それは自分が待てない人間になっていないかと感じたからでもあります。
[したくない]と[できない]は別
待つことをしたくない、ということと、実際に待つことができない、ということとは違う気がするのです。制御できるスキルとして待つ技術自体は、持っている必要があると思います。
なぜかというと、待つということには必ず相手(対象)があるからでしょう。相手、対象の事情もゼロではない。むしろそれは大きいことが多いと。それを受け入れられるスキルがあるかどうか。
こんなシーンですぐ試せる[待つ]
日常的にも、例えば
- 誰もいない横断歩道で赤信号を待てるか(交通法規的に待たなくてはいけないが)
- エレベーターの[閉]ボタンを押さずに待てるか(ほんの1-2秒)
- カップラーメンの3分が待てるか。
- 相手の話を終わるまで聞くことができるか。 等
これらができない、とするとき、そこには結構な自己中要素があるように感じられます。言い換えれば、待てるということは、自分都合から距離を取れるスキルだと思います。
これは対象が人間の場合だけではなく、
- 野菜
- お肉(牛、鶏、豚)
- ワイン
- 子供の成長
などにも当てはまりそうです。自然の成長速度を超えた促進策が、かなりの正しさの元にそこにはあるように思います。
音楽を聴くことも[待つ]の一種か
そして怖いのは、待てなくなってることで、大好きな音楽をゆっくりと聴けなくなっているのではないかと。
ポータブルプレイヤへの転送、シャッフル、ダウンロード、プレイリスト入れ替え、、、ひとつひとつの曲の持つ重みがどんどん軽くなっている。聴き込んで初めて分かる曲の良さを得る機会を自分で放棄していないかという思いです。
待つことは、自己都合と距離を取ること。対象の事情を受け入れる余裕、優しさを持つこと。そのスキルは、自分の生活に意外なよろこびをもたらすことのように感じられてきます。