【『反教育論』/泉谷閑示】量から意味へ価値をシフトしよう

『反教育論』を読みました。[心]のイキモノであるヒトが、そのいち機能である[頭]に専制を許し、[心]が省みられず引き起こされている弊害を問い直す一冊。自分も最近ずっと考えている[イキモノとしてのヒト]という問いと重なってが数多く、びっくりしました。

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[量][効率]ではかる価値と意味づけ

お給料は少しでも高い方がよく、物品は少しでも安いのが良い、最短ルートが当然、よい。本当にそれが正解かなぁと。数値的プラス価値が絶対化されてないかなぁと思います。。よく生きるという点からすればもっと多彩な”意味づけ”があるし、もっとも”意味づけ”ができることが、自分をよく生きるための思考の独立ではないか。それを問うこともなしに、一般的な価値観になって、時としてそれが[善]として圧力的に示されたりするなぁと感じます。でも本当はそうと限らないって、どこかで考えてゆかないとですね。

教育は不要か

自分は強制的に行かなくてはならない学校はない方が良いと思っております。義務的な学校はみんなと違(たが)うことをあまりよしとしない集団主義的な価値観を強制される、逃げ場のない場という気が、少なくとも僕にはしましたため。。それは教育なのか。そもそも[教育]というものは大人の管理しやすいように子供を加工するプロセスのラベリングではないか?など、、問いが駆け巡っている状態です。

知識の蓄積が社会にもたらすものは

論理、効率のみに囚われず真善美を取り戻すべしとする山口周さんの視点とも共通点がありました。今後こうした視点が広がってゆくといいなぁとおもいます。結局何のため人々は社会生活を送るのだろう?苦行に耐えることが[善]とされるためか。知識の蓄積が社会にもたらすものは人を追い詰める価値観や排他的な経済競争?人は自分たちの住む世界をどうしたいだろう?窮屈に苦しいものにしようとしているように思われてしまいます。

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