お正月休みに、ふとヘッドフォンを。。
なんともなしに聴き始めた音楽が止まらなくなってゆく。懐かしい曲、定番の曲、新しいプレイリストを聴き込んでゆく。
音楽に向かう時間の消失
自分の生きる時間の中で、音楽に向き合う時間が、それもここが大事なところなのだけど、心を大きく開いて向き合う時間が大幅に減っていることを実感しました。この新鮮味はなんだろう。この奥行きや心を打つビートの強さ、メロディやピアノの悲しさはなんだろう。日々生きる中で、こうした色合いが自分の生に含まれていないことをつよく危機に感じました。
“ながら”リスニングの限界
とは言え、普段、通勤の帰り道には必ず音楽を聴きながら帰るのだけれど。それでもこの心の開きかたは違う。通勤の最中、それも帰宅途中といっても全く違うリラックス。そもそも、移動しながら、ではない向き合いかた。心の開きかた。音楽への尊意の喪失と、”ながら”で吸収しようとする効率主義のようなものが知らず知らず自分の表面に出てきているように感じます。
世界を閉じているという
音楽は世界だと思う。これは本も同じですね。自分の限られた世界を押し広げるものの大きな二つ。その一つに、いつからか蓋を閉じていたらしいです。いつからか。向き合わず、ながらで済ます姿勢を音楽に向けていたらしいです。そうした姿勢が合う音楽もあるけれど、そうではない音楽へ蔑ろな姿勢をとっていたように感じます。これは結局は生きることに向き合うという点で、音楽に向けてではなく、自分に向けた姿勢だったのかもしれないですね。鋭敏な感覚、主張、美的意識に対する軟化、鈍化の証明ではないかと思います。
効率化のもたらすもの
時間を節約し効率化しようとして、大切なものを失い続けているようです。自分にとって大切なものは、おそらく残念ながら、時間のかかるものが多いのかもしれません。それは事実としてあるのだから、仕方がないのだ、効率的なものが良いのではなく、良いものを本質として考えていかないといけないと思いなおします。。
ねぇもう少し、ゆっくりと今を生きてみたらどうだろう?目の前の音楽と向き合ってみては。自分の知らない世界がそこに広がっているのだから。
特に感動したものを挙げてみます…
- ・Beethoven:交響曲第5番 *第四楽章
- ・King Crimson:太陽と戦慄pt3
- ・Chick Corea:Part2[dedicated to John Coltrane]
- ・Cocco:raining
- ・すぎやまこういち:死の塔(どうして塔がここまで美しい旋律なのだろう)
嫌いな音楽を消してみる/U2
U2なる項目は全て消去しました(笑)。自分には好かない音楽だったなぁ。ずいぶんすっきりとした、誰かに何やら背負わされれる重みも煩わしさもなくったように感じます。U2は僕にとって呪いのようなものだったです。全くといっていい。なんの興味も魅力もない、音楽的粗蛋白な存在。どうしてそこに僕が関わらなくちゃならないんだと今になってそうした気持ちが湧き上がります。僕は誰かの”好き”の道具ではないんだと。僕の好きが受け入れられない世界で、誰かの好きに貢献する必要も感じなくなってゆきました。その象徴がU2です。二度と僕の耳に入らないで欲しいという気持ち。
好きな音楽を取り戻せるか
人の流れの中で、好きな音楽というものがどんどん流されていった気がする。僕が良いと思うもの、良いと思える演奏、曲、表現方法。そうしたところから遥か彼方にきてしまいました。
でもどうしよう?
僕は便利屋さんではないからそれはやめるとして何をどうしようか。それこそこの先に希望となる光ではないかと思います。
何をどうするか、実際に何を。どうするか。それは僕でしか起こせないことですね。僕以外には起こせないことがあるとすれば、こんなに素晴らしいことはないと思います。