【普通がいい】から抜け出そう

『「普通がいい」という病』を読みました。開業医にも関わらず単身でフランスに音楽留学したことをきっかけに、日本社会の生きづらさを問い続ける精神科医の著作です。頭(理性)を器官の一つに過ぎず心へ介入させ過ぎとする論旨が基調。同著者の他著と被るも多いですが、[普通]とは、[正しさ]とは、[皆と同じ]とは、、といった人間関係的な悩みを持つ人には一読の価値がありそう。

「心」=「カラダ」への「頭」の介入過多

「〜したい」(want)心は体が生み出す自然な要請であるそうです。これに対して、頭、理性が必ず優位であり、mustやshouldという言葉でそれらを制御することが当たり前になりすぎている点に危機を喚起しています。

我々は日頃からとにかく辻褄を合わせようとしてしまうし、感じたことを頭で何度もこねくり回して出した答えをほぼよしとしがち。数値的プラス、費用が安ければ、時間が早ければ、生命が長ければ、部屋が大きければ、必ずしもいいのか。自然の一部として、自分の「頭」を「体」と同列に並べてみる感覚は新しかったです。


「頭というものはそんなに頭が良くない」

というフレーズは知る価値があった。頭の理解できることは一定程度の範囲でしかない。頭の悪い自分にとっては感覚的なものこそ失っちゃいけないんだなぁと新たにしました。

理性的な正しさの限界と感覚的生物ヒト

現代社会では論理性や辻褄がどうしても必要だし、成果物には一定条件下での正しさが求められます。寧ろ、そこへの姿勢はより鋭くなる必要があるでしょう。

その一方で、それがスキルで終わらずに常時の傾向になった時、ヒト対ヒトの基調が不具合に陥るのだと思います。頭はあくまでも器官に過ぎないのだとすると、その意見も聞きながら、別の意見もつまりヒト的な感覚的なやりとりも必要なのだと思いました。

これは例えば、クレームの抑制、対応にも関わるのかと思います。正しさを持ってこられても、納得できなければヒト的にはプンプンとなる。そこでは、「頭」がもたらす理屈や正しさは全く効果がないですよね。その意味ではこうした情報型の社会のなかだからこそ、より一層のヒトスキルが必要なのだろうと思う。

ヒトスキル

とは何か。一言で言えば「品」ではないかと考えました。品とは何か。例えば

  • ① 法律など何かの基準を越えて、していいことと悪いことを知っている美意識(徳的感覚)  
  • ② 優しい伝え方(表現力)
  • ③ 相手を受け入れる態度(傾聴力)
  • ④ 必要・不必要の観点を度外視できる能力(効率主義からの脱皮)

思いつきで列挙したまでですがより簡潔に言えば、”機械的にならないこと”ではないかと思います。人は機械になってはならない。その元凶が頭ではないかという気がした極端かもしれませんが。でもこうしたものは、大人になってからはそうそう鍛えられないような気もしますから、大人こそ、自分で学んでゆくことを止めてはいけないなぁと思います。

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