休みの中でもいろいろとやる事があって、
本当に暇で暇でしょうがないという事がないから、
そこまで何かを考えることもしていない気がする。
でも改めてふと自分のことを考えてみて、とてつもなく寒気がする事がある。
多くの人と異なる事が目の前に提示される時。
周りの共通認識が自分には覆い隠されていることを、自分では忘れてしまう時。
いったい自分とはなんなのか。
この地球から借り受けた肉体を一時的に運用している魂ではないか。
それをどこまで自身のもの、こととして捉えるべきなのか。
それが共通認識でない以上、周囲との接点は今ことの時、
この時代、一般性、常識性の中で捉えられるわけだし、その中に自分もいることには変わりない。
自分は忌み嫌われる部類の外見だと知る時が一番辛い。
でも僕に何ができるだろう。
日本の地図を好きなように変えられないように
多分何もすることはできない。
杉が杉であるように、カビがカビであるように
リカオンはスピッツになれないし、イタリアのあの「形」を変えることはできない。
そうした運命性が、それでもどれほどの意味を持つのだろう。
周囲にとって、「ああなりたくはないよね」と暗黙に見られる風貌だとして
それで何がどうなるのか。
答えて欲しい、それで、何が、どうなるのか。
ただ一つ思うのは、
自分を消したとして、周囲の考え、見方、習慣、感覚、忌避感なんて全く変わるものではないってことだよ。
っていうかすぐ忘れられるだけだ。
自分を産んでくれた地球に対して、そうした行いが本当に良いのかを考えて欲しいのですが。
それを考える事ができることを教養と言う。
表象も大事だ。醜いよりは美しい方がいいに決まっている。
だとして、自分が地球から借り受けた命は、自分のものではないのだ。
それはハイエナや蚊やマイマイガやサビ猫や黒人や僕だって同じだ。
自分って、自分で好きで生み出して、自分で好きで消せる物じゃないのだよ。
そうした考えが持てるか。
だから、分からないのだ、すなわち自分とはなんなのか。