雨と思い通りにならないことについて

今日は久しぶりにまとまった雨が降った。

小手指周辺は畑やらが多いのと、風が結構強く吹くことが多いため

乾燥すると砂塵が舞い散る(やや大袈裟な言い方をすれば)ので

時折の雨がそうしたすなぼこりを鎮めてくれるので、とても嬉しい。

とはいえそれに関係なく僕は雨が好きなので

降ってくれればそれはいつでも嬉しい。

なぜだろう?

雨だと晴天時の活動が、一定程度、強制的に制限されることが

体や細胞の休息につながっているのかもしれない。

休むことが自分だけの事情ではなく

天候を理由にできることで自分だけの都合でない、堂々と静けさに身を置ける、そんな感じ。

胸の苦しみと咳も、黄砂の影響もあるかとのこと

砂が風に乗って海をわたるってどれほど「粉」なんだとおもけど

この雨でそれも収まってくれると良いと思う。

今日も色々嫌なことというか自分の理解に及ばないことがたくさんあったな。

それは私の関知する範囲ではないので、雨と同じく、ただ降り続くのみ。

あるひとの行動がどうであろうと、それは僕の関知するところではない

地球が自転することと同じく、自分には全く、完全に及ぶ範囲ではないということ。

それはとても素晴らしいことのように思えるなぜなら

そこを自分の力が及んで仕舞えば

世の中のあらゆることを自分の思うように変えようとしてしまうだろうから。

僕は、そうしたことのために生まれてきたのではないし、そんなに時間もないわけで

むしろそうした遭遇をおもろいものに出会ったなとやり過ごすことが大事だと。

朝が来ることをやり過ごせないとカオスになるだけですよね。

そうした訓練を積めると思うと、ほぼ自分のメリットでしかないことに気づきます。

明日も、そうした遭遇を経て、自分のメリットにして行きたいな。

遠くで池袋線の音が聞こえる。

このあたりまで来ると一駅は結構長いし、周りも、とても暗いです。

そうした静寂、静けさの中で

テンプラニーリョのグラスとバド・パウエルの「Body and Soul」を聴きながら想いをめぐらせられる

何よりも素晴らしい。今日もこうした時間に出会えたことに、感謝したいな。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)