結婚生活と生きることへのハングリー性みたいなものについて

単純に安住しがちだって事。

どこか保守的になるし退廃的というか新鮮な自由度を失ってゆく気がする。

それは一人の時には絶対になかった、そうしたことと常に向き合っていた気がする。

共同生活、共有する時間が自分の一日の中で多くなるほど、安心感も増す代わりに

とんがっている自分や新しいことへトライする自分、勢いでゆく自分がなくなっている気がする。

というかなくなっている。

もっと深く広く音楽を知りたいとか

どっぷり本を読んでゆきたいとか

秘境の地にわけもなく出かけて何もしない時間を持ったりとか

要は説明できない衝動みたいな、見通しのない欲求に蓋をしてそうしたものをなくしているのではと思う。

これはとてもよくないと思う。

なぜそうなるのかというと、簡単で、日常が一人の世界ではなくなったから。

誰かに伝えたり相談したり一緒にやるタスクなどもあると

いちいち自分のプリミティブな行動衝動を背景から根本から説明しなくてはならなくなる、

そうしたことは非常に労力を使うし、そうしている間に元々あった衝動が消え失せてしまうように思う。

生きることへの率直な衝動を抑えねばならぬほど

そこまでしてなぜ共同生活をするんだろう?という問いになる。

難しいのはその環境において初めてその問いが生まれる点だ。

頭で思うほど人の未来は思うようにならないものなので。

共有する喜びもあるのは知ってる、知ることができてよかった。

それでも今でも自分は何かを追っていたいしそこに自由を持っていたい。

要はずっと家族といると疲れるということ。

実家でそうしたことあったでしょ。それが夫婦でも起きてくるってこと。

それを蓋していくのか

何か解決策を打ってゆくのか

いくらコンフリクトがあっても

最後は自分ではないかなと思う。

そういうの時々本気で思う。 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)