【福を提供すれば自分に返ってくる】明治期に見る幸福論

読書/幸田露伴/幸福論/努力論/仕事/リーダシップ/年収

僕は、内向きに物事をこねくり回す癖があります。大学時代は政治学科より本当は哲学科に行きたかったのですが。どうしてそうしなかったのだろう?今より世界が狭かったし、周囲やら言ってみれば高校の割と近しかった英語の教師から”男子なら法でしょう”というような話をもらった気がしましたが、でもそれは結局は自分の決断だったと思う。人のせいにはできないですよね。それはそれとして。

普段の社会生活の中で、そうしたことをふと思い出しながら手に取ったのが幸田露伴の『努力論』でした。内容が濃いため数回は読み返しているけれどもまだまだ深いですねぇ。それでも一度はレビューを書いておきたく。そのポイントは多岐にわたるのだけど、強いて言えば前半の幸福論3部作だと思います。これは仕事そのものだと思うから。

amazonへ。
  • 惜福
  • 分福
  • 植福

詳細な内容は本書に譲るとして、個人的には一人暮らしが長く、予算管理の関係から[惜福]の意識はかなり強いですね。本書の趣旨とは少し異なるけれども、貯蓄を使い果たさず残し残しやってゆく姿勢はまさに惜福です。このステップから、同居、結婚をへて今実感するのは[分福]の概念です。今までは一人で食べきっていたレタスと胡瓜とトマトのサラダを二つに分けてシェアする。当然量は減るけれども、二人で分けてゆく。文字にすればさも簡単なことのように見えるけれども、これが、当時は本当に辛かったことを思い出します。今まで一人で完結してきたことをシェアしてゆくことは簡単そうに見えて、じんわりとエゴが滲み出てくる。その意味で、あまり一人暮らしを続けるものではないと思いますね。逆にシェアハウス的な暮らしをしている人はその点で得難い経験や特質を獲得していると思います。

そして仕事の点で言えば[植福]の概念でしょう。文字通り[福]を[植える]こと。この一番のポイントはその物事の重要性は自覚するよりも相手がそれをどう感じるかという点。一椀の水、ひとかけらのサポートが相手にとってどれほど大きな感慨につながるかという点が説かれています。この点は、自分でそのレベルを判断するのではなく、相手にとって少しでも役に立てれば、という気持ちの表現を表せるかという点かと思いました。些細なことでも表現し、相手に提供する姿勢。これはサービス業(サービス業でない仕事があるだろうか?)の根底にある要素ではないでしょうか。自分にできることをその大小を自分で判断せず提供する。可能な限りのレベルでも提供する。その姿勢。それはゆくゆく自分に返ってくるとする本書の趣旨は明らかに仕事に応用できる基本理念だろうと思えます。まず他者への福の提供。それが結局は自分に返ってくるものなのでしょう。

どうしても、目の前の損得がクローズアップされ、相手の言い分と自分の言い分に正しさを押し通したくなるケースが多い日常の中で、それでも仕事の持つ貢献性を未来の自分への(本書では自分だけに限定していないけれど)福を植えるという風に捉える考え方は本当に今この場で生かせるものだと思います。

こうした、若干概念論的な内容だけれども他にも生きるに参考になる諸項目が収められていて、夏休みや秋の読書にはもってこいの一冊ではないでしょうか。古語で表現されるけれでも内容は分かりやすいです。そして、今言われる諸事項はすでに述べらているという点も新たにしました。まず古きを知るって、それで新しきを知るって、本当にその通りかもしれないですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)