【新型コロナ/緊急事態】自分で考え動くこと

年明けから新型コロナウイルスがまとわりついています。気がつけば4月に入っていました。

ここへ来て、日に日に感染者数が増えてきていて、今日4/2には東京都で97人となったとの報道がありました。先々週から倍増しています。もちろん絶対数的には、微小なのかもしれませんが。

ただ、どうしても思うのは、他国の状況です。一月前のイタリアの記事に、”感染者数が80人となり、合計で400人を突破”という内容が出ています。今では何万という感染爆発を起こす前夜の様子です。これを見返すと、今の日本はまさにそのタイミングに来ているのではないかと確信に近い疑念を持つわけです。

大切なのは、この被害がどんなものかを想像することだと思います。軽症と言いつつも実際は恐ろしいほどの苦しさ、熱、食欲のなさ、水しか飲めず、それでいて親近者とも会うことができない孤独、最悪は死に至る、その時にも対面が許されないというこれほどの悲惨があるかと想像します。定量的に見るのではなく、その質に目をやること、想像すること、そういう人を少しでも減らしたいと思うこと。そんな気持ちになっています。

日々の仕事があるから、毎日ビールが飲めて、美味しい食事が食べられるわけですから、一概に世の中を止めることが絶対的にいいことだとは思いません。しかし、世の中を支える人々の安全、命が脅かされるならそここそまずは解決しなければならない第一次的な部分であろうと思います。

そして、それは、理想は国家がある程度保障することが望ましいのでしょうが、現実問題として、誰しもの満足のいくケアを国に求めることは、たとえそれが正論出会っても残念ですが不可能なのです。そこから出発してゆくことです。変えるなら、まずは自分からなのです。自分ができることを自分の判断で行うことこそ自立した市民のあるべき姿です。国が、都が、会社がそうしてくれないからできないというのでは、駄々を捏ねてできない理由を列挙している子供の様相とあまり変わりません。こうした人々が多いように私は感じます個人的に。

何かを変えたいなら自分から変わるべきだ。自分の命でしょう。自分の家族の命でしょう。誰に任せるんですか。誰に責任を負わせるんですか。最後は、自分しかいないじゃないですか。

そんなことをすごく考えている夜です。ウイルスのおかげで楽しいこと、文化的な自己研鑽、開放的な時間もことごとく失われているように思います。

その中でどう生きるか、それは誰かに決めてもらうのでなく自分で決めて行動することなのではないか。つい何かに頼りたくなる自分に、そう言い聞かせています。

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