【飽食の時代に考える】食べられるという幸福

南房総AKB10

 

戦後の飢餓

普段から半藤一利さんの本を読んでいるけれど、ココのところは戦後の飢餓について知った。幕末からの近現代史を学んでいると、それは国際関係、国際・国内政治の移ろいが基本的な考察対象である。そこから距離を置いた実際の民レベルで、では何が起きていたかというと、今回のように驚きが重なるのである。

 

終戦後の餓死死体

とにかく食べ物がない状態。東京上野駅に一日何体もの餓死死体が生まれる。草の根や茎など、食べられそうなものは何でも食べてみる。と、これは戦中と等しい、むしろもっと過酷な状況ではないかと思えてくる。特に1945年の9月以降、つまりポツダム宣言受諾から降伏、要はこれで平和が訪れた、めでたし。ではなかったのだ。食べ物がなくては生きることそのものが不可能なのだ。終戦を迎えてもやはり苦しんだのは民衆だったのである。

 

しかし、今となっては殆ど知られることもない。

 

食べ物よりお金・時間

今の世がどんなに恵まれていることだろうと思う。そう考えてから、食べるもの全てが今までよりもたいそう美味しく感じられる。今では、食べ物がない、ということが考えらない世界だ。そこでは朝ご飯を食べる人達も少なくなってきているという。食べることよりも時間、お金。自分たちが「生き物」であることを忘れてしまう程の変貌ぶりだ。

 

人間的に暮らしているのか

生きることはものを食べて健やかに暮らすことだ。そしてそのための環境を自分たちで創り出し、護って行くことだと感じる。人間的で常識的で先進的な暮らしをしているつもりが、満員電車、深夜残業、仮面人間関係、コンビニ飯、添加物、外食(素材がどう扱われているかと思うと怖くて食べられない)・・どれほどアブノーマルな世界に自分たちがいるのかも分からなくなってしまったようだ。そこに引きずられず、自分自身の考えをもって生きていきたい。

 

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