比較と正解
周りを気にする人があまりにも多過ぎます。僕も当然その一人です。その最たるひとりと云っていい。なぜ周りを気にするのでしょうか。僕の勝手な考えでは(世の中に勝手でない考えも少ないと思いますが)それは世界の狭さと[正解主義]ではないかと思います。正解なんて本当はありません。誰が此の世の中に揺るがない正しさをもうけられるのですか、神様ですか。ヒトという生物がどんなものを持ってしても正しさなんて作れないと思います。
多数派が正しさになる理由
その正しさらしきものに引きずられるのは(僕もその最たる一人ですが)世界が狭いからです。考え方の枠組みのバリエーションが少ないからです。カラーパレットのような多様性があれば、どれが一番美しいかなんて問いはそれ自体意味を失う。単純に考え方のバリエーションが少な過ぎる。ある世界の中の大多数が一定の考え方しかできないのは、その世界に他の考え方がきわめて少ないからですね、多数派は正しさというモンスターになりますがその原理でしょう。
正しさがたくさんある場所
裏返せば、地球規模で多様な意見に触れているような地域には正しさが沢山存在する。そのために時には争いにも繋がると思いますが、少なくとも自分の考えを表現するという自由はあるわけです、国が認めているくらいです。ここを出発点にすれば、考え、思考の独立を求めることこそ、[自由の第一歩]ではないかと思えます。自分で考えることもせずに、周囲の正しさみたいなものに従属してしてしまう人達のなんと多いことかと思えます。
自分を大切に。そのために多様を受け入れる。
自分は自分でいいのではないですか。どうしてそう、大勢とつるむのでしょう。無理してつるまなくていいです、無理に意見あわせなくたっていいのです、無理に一緒に行かなくても、無理にのみにつき合わなくたっていいのでしょう。どうしてNoと云えないのでしょう。どうしてI think…と云えないのでしょう。自分はそんなにアウトプット場に置いて価値がないのか。何がそこまで自分を卑下させるのか。結局それは自信のなさ、比較病(ヤマイという表現が適切かどうかはわからない)なのだと思います。それは個人のみの責任では必ずしもないと思いますが。
読書による多様性受容能力の向上
ではどうしたら良いか。自分なりの答えは、[本を読むこと]です。色々な意見が本に書いてあります。現代的な社会では、基本的には出版を規制することはあまりありませんから、多様な意見が得られます。いろんな意見に触れ、自分はどう思うか、ということを考えることを繰り返していくうちに[正解]よりも自分の考え方を持つことにシフトしてゆけると思います。