愛猫を広野に解き放つ
久しぶりに愛猫のコダマ先生と光が丘公園をさんぽしてきました。春の陽気に包まれて、日差しは暖かく、木陰は涼しく、一年で最も素敵な空気が覆う大地を感じる気持ちでした。
外に出ることでいろんなことが回復する
朝がたにちょっとしたいさかいがあり、せっかくの日曜日にどうしたものかと思っていたところでしたが、人間とは実は単純なのですね、外に出て朝食を食べ、歩いて、朝の空気を吸い込んでいるうちに気持ちがスッキリとしてきました。これは理屈ではない気がする。どうしても人って理屈に走ろうとしてしまう、それは正しさを求める気持ちなのだと思うのですが、それだけではないぞよ、という部分をおさえておくと生きるのが楽になります。
光が丘公園はフェイバリットの一つ
話が逸れましたが、光ヶ丘公園は自宅からも近くて本当に好きな場所の一つです。図書館もありますからCDや自分では買わない宇宙の本とか地球ものなど時々借りて読んでいます。なんだろう、あの広々とした雰囲気が自宅すぐで得られるというところかな。。あとは高校時代から随分ときていて、馴染み深いというわけではないけれど、なんとなく自由の意味するものと近い存在なのでしょうか。
どうして散歩すると気持ちが落ち着くのか。
という点で、考えたのですが、仮説ではありますが、僕の考えでは足裏が刺激されるからではないかと。ご存知の通り足裏はツボがたくさんあると言われていて、ツボはともかくも、第二の心臓と呼ばれるくらい血流に大きく関わっている箇所なのだろうと。歩くことによって足裏が刺激され、しっかりポンプとして活動することで、体全体の血行が活性化し、落ち着いてくるということではないかなと、考えています。
自然を失い続けている
そう考えると、日々デスクワークばかりしている人の血行って結構危ういのではないかという疑念が湧きますね。10人で1人か二人くらいですよね、明るく活性的な方って。僕も陰気な方なのでどうこう言えないのですが、人の自然性を復活させるようなことした方が良いのではないかと思い直しました。それは散歩だったり、感じたことを素直に表現してみることだったり(食べ物が美味しいとかでも)、社会の中の人って、なんとなくモノ感出てませんか。代替の効くもの出会ったり、スキルという名のある種の強制的な振る舞いスペックだったり。人の持つ自然性、木々や深海魚やその他の動物と同じレベルの存在であるということをクローズアップせずとも、時々思い起こして自然物としての人間観を取り戻す必要あると思います。(話が逸れまくってきたか)
家=自然を遮蔽するもの?
そう考えたら、家って、自然を遮蔽して壁で囲ったスペースなんだよね、そこにいることは自然と距離を置いていることそのものだと。そこから出たいな、散歩行きたいなと思う気持ちって自然に即しているように感じて嬉しい気持ちになります。逆にそれをおさえないようにしてゆきたい。コダマと外に出て感じたこと。そんなことを感じた1日でした。
また、別の話だけど、日本家屋って自然を寄り添うようなあまりガチガチに固めないような志向を持っているように感じたので、その辺はまた考えてみたいと思います。
コダマさん散歩の模様はこちらからご覧いただけます。よろしければどうぞ。
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