先日師匠と夏の飲み会に出かけました。広告時代の仲間も久しぶりに来るというので楽しみにしていたのですが、結構残念でした。
その大きな理由は、その同僚がよく話すからペース的についていきづらいということではありません。せっかく時間を使って集まっているのに、話題が芸能界の僕からしたらどうでもいい話ばかりだったからです。
僕の理想は(理想であるからにはそう簡単に実現不可能であるという要素も持っているのかもしれないけれど)、人と人との会話です。その人に何があってどう感じたか。それに対して自分はどう感じるか。
共感するか、理解がしづらいか。今度は相手だ、同じように何があってどう感じたか。嬉しかったのかもしれないし、悲しかったのかもしれないし。そうした、その人それぞれ独自の話題の集合体がそうした会合なのかなと思っているからです。でなければ、単なる付き合いの時間つぶしでしかない、無駄以上の害悪になりうる時間であろうと思います。
そんなんで、とても親しい人たちの集まりでしたが、いつも思うのは、ふと、その人に紐づいた物語出ない話ばかり展開されることに閉口するし、共感も感動も何もないと。
それは優しさとか理解とかではなく、人と人との自然な関わりの形、その人に紐づく話題の交換、という自然なやりとりがいわば無に帰している、それではあっって話をすることが全く意味をなしていないものだと思います(どんだけ勝手なのかもしれませんが)
昔から、人との会合では、特に4人以上での会合では、そうした気分を持つことが多い自分です。そこに集った人々それぞれに紐づく話がなければ、話などしなくて良いのです。その人に紐づいた物語の交換こそが人との付き合いの原点なのではないかと。
そういう意味で、昨日みたいな会合には行きたくないですねえ。それは個人の判断ですから、断然自由だと。そんなことを10年ぶりくらいに感じたので書いておきました。