【なぜに1万円の顔?】『福翁自伝』/福沢諭吉

福沢諭吉[福翁自伝]/1万円札の顔としてふさわしいのか?/幕末/維新

福沢諭吉の真実を知る一冊。

・しかし酒好き。借金はことごとくしないのに、酒が飲みたくて溜まらず着物を売る始末。
・若かりし頃のやんちゃ感も[本当に1万円の顔でいいのか]と思わされるほど。何しろ橋の上から、自分は贅沢できないからと屋形船に向かって飲み屋で盗んだ皿を投げつけたりしているのだから。
・数理、経済的原理、自身の独立を標榜する内容には感化される。

経済的な契約、決まりを遵守する姿勢

・自分は技を売って対価を得ている

・状況に関わらず約束したお金を払う

・12歳からたとえ二日過ぎても大人料金は大人料金(として払う)

そのあたりの約束ごと、いわゆる経済的な契約、決まりを遵守する姿勢はいまの一般的な感覚よりもかなり尖っている。

封建的閉鎖的な慣習を全面否定

従来の漢学、儒学に対して完全に否定的であり旧式のつまり江戸時代の封建的閉鎖的な慣習を全面否定している。此の点はいまでも普通に残っている点で、日本人に埋め込まれた伝統的な閉鎖性細胞はまだまだ根強いように感じる。(いまでも、というけれど江戸が終わったのはついこの間なのだから最近の話といっていい)
お金の話では、なにかあるとつい”付き合い”やなにやらで意味の分からない値引きや調整、無報酬での請け合いなどが罷り通るのはいまでも普通にある景色だけれど、福沢はそこに既にドライなまでの姿勢を持っていて非常に感化された。

約束は約束、請求は請求、支払いは支払

自分もお金を扱う立場で(技術進行が多くて忘れてしまうほどだが)、お客と接しながら、明らかに通らない筋が往々にして通ってゆく様を目の当たりにしていることに気づく。約束は約束、請求は請求、支払いは支払いなのである。そこに躊躇するような仕事なら、そこを改めるべきだし、改められ得ないなら、しない方が幸福になれると思う。
約束、契約、作業範囲、与えるものと得るもの、条件づけ、その遵守。平等な立場でそういったものにもっとドライに向き合う必要性を感じた一冊。

政治色が殆どないのも珍しく

幕末から維新期の語り部なのに政治色が殆どないのも珍しく感じた。大抵は薩長vs旧幕派の構図で語られるから。

本人の自慢めいた雰囲気が鼻につく

語り口に本人の自慢めいた雰囲気が鼻につくのと、また口述速記型の著作なので、事実と異なる点への指摘が訳注で頻発していて、けっこう面白い。大まかなノリで話しているのがバレバレなのである。

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